もとはじまりの話 泥海古記(どろうみこうき)
 
   芹沢家 本
 
  芹沢家でのお話より
 さあ、前にきいや、皆前に。さてなあ、親神さんが何故に人を助けよう、また人を造ろうと思うたのかという理のことや。先ず、ほんまにこの世というものは何にも無い時、月日両人ばかりが表に現れて、この姿を見てほんまに可哀相や、ああこれでは寂しいなあと思われた。親神さんが先ず泥の海をじいっと見澄まされると、ほんまに真っ直ぐさんに動いているうをとみいとが交じってた。ああこれならこの一筋心ならば、神さん、つかえるやろと思うた理を神さんはなあ、先ずその場にいるうをとみいとを引き寄せて話をしましたのや。
 さて、あんた方これから人の雛型造ろうと思うやけども、あんたどないやろか協力してくれますかと言うたのやけども、うをとみいとはそないえらい仕事出来まへんわと言うて断って消えてしもうた。それでも、三、三、三度、くどく、くどく、くどく言うてうをとみいとを引き寄せた。ほんまにくどく言うてほんまにうをとみいとがやっと承知し、そやから協力しますで親神さんの御守護やから、ほんまに協力さしてもらいますと言うて九億九万九千九百九十九年の後は、あんさん方を神として拝をさせようと言うような思し召しの上から親神が両月日がうをとみいとを引き寄せた。そやけどせ、うをとみいとではまだ出来ん。それで人間の体の一部一部を皆それぞれ造らんといけん。またその中のどょうをようよう見澄まされると、しゃちとかめとが居ましてな、しゃちとかめとはほんまにまた、これも一筋に動いてこっちに寄ってきて親神さんがよう言いました。あんた方、人の雛型の道具の神になってくれんやろかと、そやけどもそのもの達も、いやや、そないなえらい仕事出来まへんと言うて断ってしもうた。そやけどもやっぱりここで、くどく、くどく言うてやっと承知してもらい受けて、先ずしゃちを男の一の道具さんにさしてもらい、かめを女一の道具さんにさしてもらいて、あい決まって九十九年たったら道具神として拝をさせようと、ここでまた談じ合い練り合いの末ここまでやってきた。
 またこれでは足らん。これでやっと男の種、女の種と両方が出来た。これで女の苗代、男の種と、これでほんま出来たけどもまだ足らん。人間の体というものはいろんなもので出来てはる。飲むことも食べることもせんとならんし、また子供を産む時には、それを引き出す道具が必要や、それでまた色々とこう、ようよう見澄まさせると、ほんまにうなぎとそれから人間の息を造りはったな。丁度かれいの形というものは団扇の様に風起こしや、そや、こんならば人間の息の理とまた飲み食い出入りの御守護というもの出来るやろうと思うて、親神さんが早ようこれを引き寄せんとと思うた。さあ、おいでと言うた。またここで、くどく、くどく親神さんのさとりの上、あんた、あんた、こないなことしてくれんと人は出来んでと言うたけど、また断って、くどく言うて始めて、はいとしてもらい受けた。また九億九万九千九百九十九年経ったら、でいり神さんとして引き寄せましょうと言うた。またこれでは足らん。そや、今度は子供を引き出さんとならん。またその胎縁を切らんとならんと言うて、またどじょうの中を充分に見澄ませた上、ああこれはふぐだ、怒るとぷっと脹れてぎざぎざしたもんが出来てくる。それでふぐと、それから引き寄さんならん紐の働きをするへび、くろぐつながいましてな。くろぐつなを引き寄せてまたこれに、よくよく、くどく、くどく言うてもらい受けて、これでやっと引き出しと切る理というものが出来て、これでやっと人を引き出すまでに出来るなという談じ合い練り合いの末、ここまでやっときて、おおとのべのしんをおさめましたのや。
 さて、これを男の種と女子の苗代と二つ出来たのや。月日両人が女の中に日の心、男の中に月の心が入り込んで三年三月、どじょうを飲み込んで九億九万九千九百九十九人の子供の種を宿し込み、七十五日経ってほんまに産み下ろしましたのや。初め五分五分で成人して、しっかりすえても中々出来ん。九十九年経ってああとして、いざなぎの御心というものが一緒に出直して、そして子供達もまた出直してしもうた。はじめ一緒にな。さて、それからまた、どんどん、どんどん、ひがして、いざなみは同じどじょうの心をもて、自分で宿し込み、そしてまた子供を産み下ろし。ここまで来ればいいやろうと思うて、子供と一緒に九億九年経って子供が成人する前に、ひがきえてはる。始めてここで泥海というものの御苦労さんがみえてくる。
 さて、これが肝心や。それから人間は、ほんまに鳥や畜類全てに生まれかわって、やっとここまできて知恵の仕込みや、言葉の仕込みを教えて尚も教えて、高、低出来かかる中で、子供というものが、ほんまに親神さんの苦労でここまでやってきた。これが第一ということや。なれどここで間違うていけんというものは先ず、泥海というもの、これは人間の種の理や。種の理というものは親神の懐に抱えられている御霊の心。そして尚もどじょうというものも、この高、低出来たところでやっていた。先ず天の親神の御霊の心から沢山のどじょうが、この地球に落ちて始めてそこから、だんだん出来てきたのが人というものや。等しく教えても尚も分からん故に、親神はいろんな諭し方で教えてきてはる。
 そやから、この世界というものはな、神さんの懐住まいというてな、貸しもの借りものの理が一番重要なことや。尚も一層見定めると、人間の心というものは皆一筋でなければいかん。一筋の心持たんと、あちこちと曲がった心になる。さて、これでまた泥海にたいして、心変わって始めて、くどく、くどくと言うて、道具神を引き寄せたほどに、人間というものは、また同じや。くどく、くどく言って、その種を持ってはるから、くどく、くどく、元一日で、くどくつとめた。さてな人というものを、くどく教えても中々悟らんでいろいろに、くどく、くどく引き寄せて引っ張って、切ったり繋げたり、また怒ったりというようにいろんなことをして、人間は造られてきた。なれど、人というものは、惜しい、欲しい、憎い、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢というようなもんで、人というものは、ほこりが力を造ってしまう。ほこりの心というものをつこうたら、またそれが因縁として現れてくるが、人は借りものやからなあ。御霊さん、心同様が皆それぞれという。
 なれどもそれぞれの心というものは、それぞれに与えられてるものやから、難しいが、先ず人間は、くどく、くどく、親神に何度も、何度も説かれても分からん。自分勝手の心使いやすいというのを泥海では、よう教えてはるはずや。そやから人というものは、また一つ一つを親神に、どないなことして造ってもろうたという元一日に戻ることが大事や。あまりねんだいのぎや、またどの位の成人が鈍うてならんかったという心までに教えて九十九年と、同じ繰り返し、繰り返しをしていても中々成人出来ん子供のことを諭したものもある。
 なれども、いざなぎ、いざなみの理を、親神の心頂く月日両人が入り込んで心こそが丁度夫婦の理や、夫婦がそれぞれ阿吽の呼吸で心入れて始めて子宝の種を頂くようなもん。その心を第一に、もの、ものというものに入れて、器というも出来かける。そこに高、低出来た心入れかけて始めてもの心つくまでという。もの心つくまで親神の修理肥は中々難しい。そやから皆それぞれに因縁を抹消するためには自分の心の入れ替えと自分の魂の入れ替えというものがある。それは気の向き方、心の向きから事情の返し方によってくる。このことを第一、親神が言いたいことや。
さてなあ今日何故に親神が言いたいことは、それはただ泥海こうきだけを一生懸命学べということや。泥海こうきの中にある親神がいかように苦労したか、苦労して人に何かを教えようかと思うたことや。泥海の中には幾多の困難を乗り越えて親神が人を造ろうと思うた苦労話だけやのうて、人というものが色々な道具衆に入り込んだように、それは道具やな。道具の心を入り込んだ、ようように色々たたかれて頂いて始めて、ああ、ほんまもんの人にならしてもらう。
 九億九万九千九百九十九年には神として拝をさせよう。神というものは示して申すものや。親神の心をしっかり頂くものにしようというた元一日や。その道具の心というものは、あんた方全てや。神を現して神を拝をさせようと思う姿ではのうて、自分自身の心を親神さんから見て始めて素晴らしいもんやと言われるような、肝の坐った一条の心を持つ者にせんといかん。そやからそこが大事や。親神さんの心が何故に九十九年経って始めて神さんの心頂いて、神の心、社の心までおさまりきった。その理というものは、それぞれ人間さんが始めて九十九年心入れ替えて始めて百年というものみたことや。
 九億九万九千九百九十九年経ったら、人というものがいかように人間の心頂いて、ほんまもんの人さんにさしてもらい、陽気暮らしを共に楽しもうと思うた親神の精神に近づかならんというのが元一日や。特別に九十九年、真柱、心入れ替えてというようなもんやないで、始めて九億九万九千九百九十九年経って、人が何故に造られたかという元一日を諭すための話や。
 九億九万九千九百九十九年経ってまた、やおよろづの神を現そうと思うたことやない。ほんま人間の心というものが神に一番近こうならん。神というてもそれは、親神の心に一番添いきらんといかんという精神を教えるために、九億九万九千九百九十九年という年月をおいてまでも、お話することや。なれども九億九万九千九百九十九年は全てくどく、くどく、くどく、くどく申し上げますぞよという親神の親心や。そやから全て救われんといかん。
 親神は何故に九というものを、沢山表したのか、それを元一日で考えてごらん。それが第一今日の話や。一番初めの話は、昔言うたようなこと。なれど後から言うたことは今の姿ならばわかるやろうと思うた者に言うことや。これを第一しっかり持っていきなはれ。
 さて一人一人というても難しいが、このことをよう思案した上で改めてわしの前にきいや。この心が大事やで。今日はご苦労さん。
  (一九八六年六月十四日)
  天鶏第15号 13頁

  一部誤植と思われる部分もあるが訂正していない。
  段落はないが、読みにくいので勝手に付けた。
  内容の判断は読者に任せる。
 
     
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