またあの女性だ。彼女は鏡を見ている。呟きながら食い入るようにそれを見ている。





覚醒と共に残像は姿を潜めた。しかしそれを見たという印象だけ残り、ゆらゆらした水面を見る気分になる。
朧な輪郭が像を結ぶのを拒む。

ここ暫く連日で同じ人物の夢を見る。
続けざまに見る夢は何かのメッセージや警告の場合がある、そんな話を耳にしたことがある。
と言われようとも、その意味を解かなくては成すべきことも定まらない。

結局また発掘潜水に精を出すことになるだろう。虚ろに見た物などすぐに忘れてしまう。
起き上がり、皆が集まる食堂へ向かった。

ここでの日々のやり取りにもだいぶ馴染んできた。
朝から集合し食事を取り、
そこではモロリッツィとミュースコーロが大食い合戦を繰り広げ、
はやし立てたリ サタ共々一遍に、
フォルツァとプロフォンドーが鎮圧にかかる。
その様を意に介さずオットゥシータはもそもそ食べ続ける。

船上の日常は潜った連中から連絡が入るまでの、ソットによる潜水講座だ。
ダイビングには潜る前に知らなければならないことがたくさんある。
バディシステム、潜水用具の名称、減圧症と予防、窒素酔い。

「水中に居る時の鉄則とは、なんでしょう?」

冷静でいることと答えた。ソットは困ったような笑顔を見せた。それも大事なことなんだけどね、そう前置いてから正解発表。

「答えは、息を止めないこと。レギュレーターが外れた場合も少しずつゆっくり息を吐き続けるんだ。」
「なぜだ?それではすぐに肺にある酸素が尽きてしまうだろう。」
「それより大変な事があるからだ。」

水中では10メートルごとに一気圧ずつ圧力が増す。
息を止めた場合、圧力変化で肺がやられてしまうのだ。また減圧症のリスクを増す。
ということは空気の流れさえあればこれらを予防できる。
なのでレギュレーターを付けている時はもとより、外れた場合にも呼吸を続けることが唯一の鉄則なの だ。
一度潜ると圧力変化の早さに驚く。顔を上下させるだけで耳への負荷が大きく変わるのが感じられる。
直に影響を受ける部位なので内耳の圧平衡も頻繁に必要で ある。
その強力な圧力からデリケートな肺を守ることが第一ということだった。

数日、この様な講習と手伝いの日々が続いた。練習に幾度か浅い地点で潜ることもあった。
水中ゆえ、また装備品の関係で動作が制限されることにも徐々に慣れていった。


この日も同じく朝の日課を終え調査に赴き、湖の潜水ポイントに向かう船の上でのことだ。
ちなみにオットゥシータは寝坊の為遅刻、よって置き去りだ。通常ならモーターボートで追いかけてくる。

「今日は実際にお前が遺跡に行ってみろよ。」

待ち侘びた潜水作業の声がかかった。この日の為に練習を重ねて来たのだ。
この目で遺跡がどんな姿をしているのか確かめてやる。そう意気込んでここまで来たのだから、気持ちが昂るのを抑えられない。
潜水具を受け取るとそそくさと準備する。そうしながらも頭の中では既に深い青緑の淡い世界を描いていた。

その中を自由に舞う。眼下には石造りの市街地が広がっていることだろう。
大小様々な、そして一番大きく荘厳な建物が目的の神殿だ。
あの中に追い求めていたものがきっとある。
高度を下げより深く深く潜り込んでゆく。

「ブレイズ?」

呼びかけではっと視界が弾けた。水の青は一瞬にして空の青へ変貌した。

「ぼぉーっとしてると俺だけで潜っちまうぜ。」
「ふふ、残念だがそれは出来ない。」

作業はバディシステム宜しく、通常二人一組で行う。
初めての実践、そのバディはモトリッツィだ。

作業の様子はリーダーであるソットが厳しく監視している。主に無線でのやり取りを聞き見守っている。
些細な事でも不都合が生じればすぐさま作業を中断させる。彼はこの上ないほどに安全に細心の注意を払っているのだ。
そうさせているものは彼の責任感の強さと言ったところか。調査の進行具合よりも優先してメンバーの安全性を管理している。

ブレイズはちらりとソットを見やる。バディは納得した顔になり、そして互いに笑い合った。

今まで使ってきたこのウェットスーツは察するに、ミグリオのものだろう。
ブレイズでは彼らが使っているものは大きすぎてぶかぶか、しかしわざわざ新調する ほど彼らは気前は良くない。
背比べをした事はないが、もっとも彼は今立ち上がれないのだが、身長や体格はほぼ同じだったはず。

ソットに急かされてそそくさと湖へと飛び込んだ。いよいよこの下へ向かうのだ。
ジャイアントストライドを決め、水上ですぐさまBCDに空気を送り浮力を確保する。続けてモトリッツィが飛びこむ。

「ブレイズ、無理すんなよ。」
「大丈夫、心配はない。」
「減圧症にだけは気をつけろ。標高の高いここはタダでさえリスクが大きいんだから。」
「十分心得ている。」
「水中での鉄則はっ。」
「呼吸を止めないことっ。」

作業に使うこのレギュレーターはマスク式で口に咥えず呼吸ができるので、無線を通して会話ができる。時間、位置、相手、レギュレーター。
確認を互いに終え 親指を下に立てる。潜水の合図だ。BCDの空気を抜き、湖に引きこまれるが如く徐々に体が沈んでいく。

何度も耳抜きを繰り返し、呼吸を続け一気に湖底を目指す。
モトリッツィが何度も目くばせをしてくるが、特に問題は無い、OKのサインを出し頷きあう。
一度潜ると自身の呼吸音以外ほとんど聞こえない。スー、シュー、ボゴボゴ。
ソットと練習で潜ったときは無線などなく、孤独感が襲い来ることもあった。
あまり機械に依頼しすぎるのは良くないが、バディ以外に上と繋がりがある安心感大きいと感じていた。
これまでで一番深く潜った。耳抜きに手こずり時間がかかってしまったが、ついに遺跡が待つ最下層に辿り着いた。

「無線は?」
「りょーこうっ」
「んじゃそのまま中まで入ってみてくれ。」

上に住む生き物、魚や微生物の影響で湖底に白い粉や屑のような物が積もっていた。それらは死骸や排泄物が降りてきたもの。
照らすほどに白く輝き、民家と思 わせる遺跡と合わせて雪の中の暗い路地を歩く気分になった。
一掻き、水流が当たるだけでそれらは簡単に舞う。視界を奪うから下手な動きは控えるのだ。
バディの存在も確認し、これからどの建物に向かうか示された後 だった。


視界に一際、大きな建造物が映った。湖底に立ち見上げるそれは荘厳、他と比べても作りが込んでいる。
これが神殿。ぽっかりと口を開け、まるでここの水を全て飲み干してしまいそうな深い闇がそこにあった。

吸い寄せられるように、それこそ飲み込まれるまま入口から内部へ。
奥までは湖面からの乏しい光は入らない。手元のライトだけを頼りにゆっくり進む。
エアの残量を確認する。
175。
ほんの少しだけ覗いてみるだけとして奥へ 奥へ。

階段がありそれに従って上へ向かうと、遺跡内部というのに水面に出た。つまり空気があったのだ。
この部分だけ水が浸入して来ないらしい。閉ざされた空間に 上がり、重いボンベに苦心しつつ階段を上がり切るとさらに奥へ廊下が続く。
ある程度広さがあり、十分な空気もここに残っていると思われる。
試しに指先に火 を灯す。安定した光を供給するそれを見て危険はないと判断し、レギュレーターを外す。
呼吸ができた。

水上において酸素ボンベは重荷。BCDを外し階段の淵に置いた。段差を利用すればこれで帰りも装着が楽に行える。

暗い室内を用心して進む。
ここの空間はタイムカプセルだ。水に沈む以前の空気を閉じ込めたままここにある。当時の人々と同じ空気を共有する。
呼吸をするたび当時の記憶を読みだすような気持ちになる。もっともここは神聖な場所で重苦しい空気のようだ。

長い廊下を行く。一歩ずつ注意を払いながらだから、実際はそれほど歩いていないかもしれない。しかし暗闇が踏み出す足を阻む。
時間を駆け進むうち、広い空間に出たようだ。中央へライトを照らすも深い闇はそれをも食い物にするよう。全体を見渡すことができない。

せめて道を見失わないように壁伝いに移動する。
そうして一か所、とある通路との出入口を支える柱に彫り物が施されている事に気が付いた。
ここだけ明らかに違う、きっと神殿のなかでも重要な場所。内部へ、踏み出していた。

その部屋は全体を調べ尽くしても、鏡が一枚掛かっているだけだった。鏡へと階段が連なり高みにある。
特別に祭事をする空間であるのだろう。巫女がここで集中し鏡から未来を読み取る。
行う最中は厳重に出入りが管理されたのだろう、この廊下以外に出入り口は 見当たらない。
5、6メートルの高さだろうか。台に組み上げられた石の一部を階段に仕立て切り取った祭壇か。
鏡はそれを上り終えて初めて認めた。仄暗い室内にぼう、と浮かび上がった光は自身の放つライトの反射だったのだ。

そしてその光は次第に形を変え別物を、景色をにわかに写し始めたのだ。

よく眺めようと歩を進めたところ、電波独特の嵐の音が無機質な空間に木霊した。
それでよもや失念していたソットたちのことを思い起こし足を止める。
そうだ、何を単独で探検などしているのだろう。自分はチームの一員だ、足並みを乱す行為は、許されなかったんだ。
鏡に目を戻した時には暗闇を反射させる姿に戻っていた。

不思議なそれを気に掛けながらもダイビングセットのもとへ。
建物の中だからきっと電波の入りが悪い、何度も呼びかけていただろうに。
遺跡の、ソルエメラルドの秘密に対する思いが逸るばかりに、なんと義理を欠いたことをしただろう。
建物の入口を眺めたあたりから意識が異常だったと振り返る。呼ばれる何かに誘われるまま来たような感覚が残る。
初めての深さで窒素に酔ったのか。いいや、言い訳も何もない。これは全て自らが仕出かしたことだ。

入ってきた場所へ戻り、慌てて経過時間を確認する。
遺跡の内部に入ったことも、空気が残存していたこともあちらは知らない。きっと溺れたと考えている。
最後に見たときから二七分経過していた。あの時点から二七分、本当に水中ならばメーターは赤を示しただろう。

急いで装備をつけ直し潜行する、耳抜きに手こずりながら、可能な限り早く、しかし平静さを保ちつつ戻る。

湖に出るとすぐさまダイバーの姿を確認した。
あちらも視認し大きなあぶくを立てるのが見えた。近づいて互いのエア残量を確認する。
155、180。
彼は首 をかしげるようなしぐさを見せたが、安全なくらいエアがあることを確認した後、上へ発見連絡をした後、水面へ上昇の合図を出す。
了解し、雪が舞う中両手を 水面に向け上昇を始める。

よく見れば相手はモトリッツィではなかった。プロフォンドーともう一人――後でフォルツァとわかった――バディがいた。
自身のバディはエアの限界が為、先 に浮上していたのだった。

水面もすぐそこへ差し迫ったところ、表示では深さ3、4メートルのところで彼は浮上を止めるように指示した。
これは減圧症のリスクを抑えるためなのだが、 実質水中に居なかったのでその恐れは全くない。
しかし誰もしゃべらない、今は彼らの不安を取り除くように努めるのが得策だ。

それに、水面に上がった後の方が厳しい状況を迎えることになる。
もちろん全て単独行動をした自身の責任なのだが、軽はずみの報いを受ける覚悟を固めたい。
 心の猶予として指針が赤と黄色の境界を指すまで留まった。

浮上の合図が出た。エアの具合もそろそろだ。覚悟を決め浮上した。




「すまなかった。」
「無線がつながらなくてどれだけ心配したかわかってるのか!」

デッキに上がり装備を外し楽になったところで、謝罪した。潜水中の単独行動は何を置いても許されるものではない。
自分の命を預け、他人の命を預かるバディ システムに対する最大の背信行為。


言葉もない。しょげ込む姿にソットたちも何も言えないでいる。
だれもわからないからだ。

ミュースコーロは体を小さくし、
モトリッツィは押し黙る、
プロフォンドーは眉根にしわを寄せ思慮しているようで、
フォルツァは苛立たしげに拳を掌に何度も打ち付け、
リサタは言葉を失っていた。
沈黙がブレイズを押し潰そうとしている。

本人にすらわからない、裏切りともいえる行為の真相。ソットは何度もため息を繰り返し、後に言葉が続くのではないかとその度怯えた。

そこに遠くからエンジン音を響かせつつ、こちらへ呼び掛ける声がした。

「おーい、皇女様よーぅ。」

久しく聞かなかった単語に対し心臓が跳ねた。ここにいる全員は身分や正体を知らなかったはずだから、嫌な予感がした。
いや、予感では正しくない。これは既に出来事が完了し、今その結果がもたらされただけなのだから。

小型ボートに乗って遅れて来たオットゥシータが大きな声で呼ぶ。

「皇女様?誰のことだ。」
「ブレイズのことなんだとよぉ。」
「どっからそんな話出てきた、遅刻の上に寝ぼけてんのか?」
「こいつを探してるって輩がそう言うからよぉ。」

ついに、いや予想よりもずっと早い。まだこの地に辿り着いて間もないというのに、もう捜索の手が及ぶとは。

「なんだ、家出だったか・・・」
「だからかよぉ、ちくしょう!」

オットゥシータは皇女様、皇女様、とブレイズを探しに来たという者達の真似をする。
だがおどけて見せたのに誰も笑みを返すことは無かった。
そういう事をする場合でないことはそれで理解したようで、以降彼は口をひらかなくなった。

「ちょうどいい、このまま連れて帰ってもらおう。」

待ってくれ、と出かかったがそんな事を言える立場にないことに気付き、言葉になり損ねた吐息だけ漏れた。
彼の目は責任者たる目をしていた。怒りとも悲しみ とも取れる複雑極まりない色。それは見つめ返すほど揺れ淀み、惑わされるのみ。

半ば放心していた。後の記憶には揺れしか刻まれていない。ボートの揺れ、引き渡しの歩みの揺れ、帰国の飛行船の揺れ。
あっという間に、宮殿に戻っていた。

ただ最後に聞こえたソットの一言が耳に付いて離れない。

「彼女は鍵じゃなかったのか・・?」









































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強制送還。舞台から引き摺り下ろされた舞姫は再び舞い戻って来れるのか。