ホーム自衛隊基地
*1 数量は佐世保基地業務隊に含む
倉島地区海上自衛隊 佐世保市干尽町
用 途 施  設  名 土地(m2 建物(m2
営舎施設 佐世保基地業務隊 53,613 9,665
港湾施設 佐世保基地業務隊港湾施設 *1 *1

【前史】
 干尽町の佐世保基地業務隊のある地域は倉島地区と呼ばれ、1911~13年に岩礁を埋め立てて陸続きにしたものであり、旧海軍佐世保防備隊が置かれた場所である。1953年11月に海上自衛隊佐世保地方総監部(当時は海上警備隊西南地区総監部)が開設された。また55年10月に佐世保総監部医務班が業務を開始した。その後、総監部は68年4月に平瀬町の旧鎮守府跡に移転した。
 佐世保地方隊の新編と同時に佐世保基地警防隊が発足し、59年6月に佐世保警備隊と改称した。陸警隊、港務隊、厚生隊、会計隊、車両隊、施設隊、補充隊等が置かれた。一方、70年3月に地方総監部人事部衛生課と佐世保教育隊衛生科を併合し、佐世保衛生隊が新偏された。本部は現在、平瀬地区に移転している。


護衛艦や掃海艇がひしめく倉島岸壁

 1987年7月、佐世保基地警備隊は崎辺地区の防備隊とあわせた改編で佐世保基地業務隊が新編となった。また新造艦の就役訓練や配置転換における慣熟訓練の指導を専門とする佐世保海上訓練指導隊が置かれている。倉島地区の岸壁は主に佐世保地方隊の護衛艦や掃海艇、支援船が係留されている。91年の湾岸戦争後、日本の自衛隊が初めて海外派遣されることになり、「掃海艇ひこしま」がここから出航していったことは忘れてはならない出来事である。

 佐世保港の中では、公共埠頭や民間埠頭の占める割合が低いことから佐世保市は75年以降、港の有効活用を図って軍商分離を実現するために、倉島地区の自衛隊施設をジュリエット・ベイスンへ移転することを国に要望してきた。85年12月には海上自衛隊が針尾弾薬庫建設で市有地の譲渡を佐世保市に要請したこともあり、佐世保市は見返りとして倉島地区の早期返還などを要望したが「佐世保港防衛施設関連問題協議会」の設置だけにとどまった。協議会では移転費用や新施設の整備費用の問題で暗礁に乗り上げ、成案を得るには至らなかった。その間に実施された調査で自衛隊施設の老朽化が著しいことが判明し、海上自衛隊側から市に対して倉島地区の施設の建替等の対策計画が提示された。98年11月、佐世保市は財政負担の問題も考慮したうえでかねてからの構想を断念し、自衛隊の倉島地区での施設整備を承認した。


新しい岸壁が整備された倉島地区の全景

 近年の大型艦艇の係留に対応できなくなってきた海上自衛隊には願ったりかなったりの結果となった。全面改修工事に費用は約200億円である。
 約60億円をかける倉島岸壁の整備は、埋め立てを行って敷地を50,000m2に拡張し、さらに海底も浚渫して水深10m、「はつゆき」クラスの3,000トン護衛艦6隻と掃海艇4隻が同時に係船できる東西420m、南北80mの岸壁をつくるというもの。06年3月末に完工し、艦艇に対する電力や蒸気の供給をはじめ、災害派遣等における物資の集積所等として活用することも可能で、大幅な機能強化となった。これから陸域の建物・施設整備が進められようとしている。

 一方、観光不振にあえぐ佐世保市は同じ旧軍港都市の舞鶴や呉にならい、倉島岸壁を開放して海上自衛隊の艦艇を観光客らが見学できるように、佐世保地方総監部に申し入れを行なった。これをうけて06年6月中旬から、土日や祝日、市内のイベントなどの際に艦艇公開を行なっている。自衛隊としては広報として大きな利点があり、願ったりかなったりといえる。

 佐世保商工会議所は軍事施設の増強によって地域経済の振興を図るという活動方針を打ち出している。程度の差はあれ行政も「すみわけ」路線のもと、経済の基地依存を強めようとしている。しかし米軍・自衛隊の施設こそが一等地を独占し、地域振興の発展を阻害しているのである。しかも米軍だけでなく「警戒レベルが上がれば立ち入りが制限される」(佐世保地方総監部)自衛隊施設が「観光資源」にふさわしいのだろうか。このまま未来永劫、基地依存体制でいいのか、その点が行政にも問われているのである。


整備された岸壁。手前は西九州自動車道の架橋


浚渫工事の始まった頃